木馬の時間

ブログタイトルは俵万智さんの大好きな歌から。ゆっくり、前に後ろに。

あまちゃんと共に生きていく

あまちゃん最終回~「第二章・イーハトーブへ」: フモフモコラムプレミアム

 

上記の記事を読んで、自分の中であまちゃんという物語が位置づいた気がする。

 

岩手県沿岸には、復興支援と称して様々な人が訪れてくれた。

ボランティアをして、お金を落としてくれた。

その人たちの目にうつる沿岸部の街並みは、津波によって過疎地が更に打撃を受けた悲惨さであり、

出会った人たちは親戚や知り合いを亡くしてなお我慢強く生き抜いている被災者であり、

穏やかでどこまでも続く青い海は、街をあの時飲み込んだ鈍色の波であろう。

 

そのフィルターを通じて、見える景色から喚起される感情は、

やはりネガティブなものであり、ネガティブな感情をもたらす地というのは、

娯楽として行き辛い。覚悟して、行かなければいけない地になってしまう。

それでも震災の直後は、行かねばならぬ、助けねばならぬ、そういった日本人ならではの

使命感や情で足が向いた

しかし、震災のショックから人々が立ち直っていくにつれて、使命感は薄れ、

覚悟しなければ足を運びづらいという回避感情のみが残る。

それが「忘却」であろう。そうして、被災者の思いもむなしく、徐々に訪れる人が減っていくかのようにみえた・・・・3年目において起こった、あまちゃんである。

 

ふむふむさんがおっしゃっているように、あまちゃんの存在でわたしたちの頭の中の沿岸部に対するネガティブなイメージが変わっただろう

小さくてかわいらしい三陸鉄道に、あの日使命感に付き動かされて奮闘した駅員さんたちの姿が投影され

かわいそうな被災者じゃなくて、辛さや苦しさがあってなお大声で笑っている強く美しい北三陸人となり

豊かな恵みをもたらし、この地の人たちが共に生きてきた、広大な海となる

琥珀やまめぶ、海女など、地味でぱっとしなかった観光名物に光をあて、

第二の故郷かのような、素晴らしい土地として蘇るだろう

 

今後久慈を訪れる人たちの目にうつる久慈の光景は、あまちゃん前と比べて

もっとずっと明るくて、より現実に即したものになるに違いない

 

テレビのチカラってこういうものなんだ。

2000万人が見るって、すごいパワーなんだ。

 

あと、フムフムさんがおっしゃってた、OPで終わった理由も納得した。

そっか、終わりじゃなくてこれからつづくのか。

アキちゃんやユイちゃんはいないけど、私が後を引き続くのか。

くじけたくなるような辛いこともあってなお、笑うことがいかに尊いか

変わらないことの大切さとか

弱さとか不完全さをもつ人がいとおしいこととか

ちゃんとドラマから貰った学びがあるから、これを胸に、私がまた続いていけばいい。

いつかミサンガ、切れるときは私の人生に訪れるのか。

 

あまちゃんを見て、人生が少し豊かになった気がします。

それって、本当、素晴らしいことだね。