木馬の時間

ブログタイトルは俵万智さんの大好きな歌から。ゆっくり、前に後ろに。

怒り見てきた【ネタバレあり】

俳優さんって、いのちを削って、渾身のものを表現しようとするものなのか。
凄惨なシーン、ショッキングな描写もいくつかあるけど、それを凌駕するくらい印象的だった、演者の表現を観に行った映画だと思いました。

"怒り"のタイトルにあるように、登場人物だれもが、だれかに怒っていました。
千葉の愛子、お父ちゃんは信じてあげられなかった自分に対して怒り。
"愛子だから幸せになれないと思っている"
お父ちゃんが、愛子への深い愛情の中にある、自分のこころの差別心に気づいた描写は印象的でした。
愛子がその後、カメラに向かって無垢な表情を見せるシーンがあるのですが、私自身の心を見透かされているような気持ちになり、ドギマギしてしまいました。

沖縄の辰哉は何もできなかった自分への怒りから、自分達を裏切り、冒涜した田中への怒りへ変わりました。
泉は、無感情で怒りすら湧いてこない喪失と傷つきから、辰哉が自分を護ろうとしてくれたことによって、怒り=泉にとっての生きる力  が湧いてきたように思います。
暴行されること自体、ある意味喪失のプロセスです。人や、男性性への信頼感の喪失、自分の処女喪失。それを、乗り越えるプロセスに、絶望のあと怒りが湧いてくると言われています。
辰哉や泉にとって今回の事件の影響は生涯続いてしまうでしょう。
ただし、彼らの怒りを見ていると、身を引き裂かれるような辛さや悲しさだけではなく、生命へのエネルギーも同時に感じました。
あの怒りは、絶望ではなくて、絶望の中にある希望を表現していると、私は思いました。

それならば、田中は何に怒っていたのか。
私は、辰哉の話を聞いた田中の涙は、ホンモノだったと思う。
苦しさ、悔しさ、しんどさ、ネガティブな感情を感じた時に、それを相手にぶつけることも、自分の中でやり過ごす強さもない。
だからこそ、優しくしてくれた奥さんに怒りをぶつけ、荷物や食堂などものにぶつけた。
その弱さ、自分がだれよりも傷ついてる、でもどうしようもないということを受け容れられない弱さから、
辰哉と泉と一緒に乗り越えれるほど自分は純粋なものじゃないという弱さから、
わざと二人の信頼をぐちゃぐちゃにするような、そんな言葉を吐いたんじゃないかな。
ほくろをハサミで切っている描写は、自分が自分でありたくないという自分への怒りだった気がします。
そして、その自分への怒りも自分できちんと自分へぶつけ切るのではなく、辰哉くんを煽ることによって自分にぶつけさせる。
最後の殺害のシーンでさえも、田中が自分の怒りをちゃんと適切な人にぶつけることができなかった、そんな表現だったような。
単なる狂人ではなく、田中なりの怒りの表現だったのかなぁと感じています。