木馬の時間

ブログタイトルは俵万智さんの大好きな歌から。ゆっくり、前に後ろに。

聖の青春

松山ケンイチは、"怒り"以来そんなに間を開かずにシアターで見たのですが…同じ人だと思いつきませんでした。

終わったあと、彼に怒りと違ったねと言われ、初めてそういえばそうだった!と思い出しました。

カメレオン俳優と呼べばいいのか、憑依型俳優と呼べばいいのか…
松山ケンイチは当に、この映画の中で村山聖を生きていました。
演じていたというより、生きていたように、感じました。

お酒を飲む度に一緒に飲んでいる人を傷つける聖。
それらは、俺と違って生きることが出来るのに…という、鬱屈している気持ちをぶつけているようでした。
断捨離中の身としてはうずうずしてしまうような、雑多な部屋でカップ麺を食べ、お酒を飲み、身体に悪いようなことばかりしている聖。
その描写は痛々しくて、病を、そして死を受け容れられないことからの逃避や自衛を感じられました。
お墓の近くを嫌がったのも、死の香りを嫌がっていたのですね。
聖は病への恐怖を語りません、怒りや苛立ち不安も言葉にしません。
ただ、自滅的な行動で現していました。
そんな聖は、羽生に初めて語りました。
童貞を捨てたいという発言は、生への執着でしょう。
将棋を指すことそれ自体が生きることで、一緒に高みを目指そう語り合えたこと、自分の生への欲求を認めたことで、初めて聖は死を、病を受け容れられたんだと思います。

手術後、家族で穏やかに団欒するシーン、髪の毛と爪を切るシーン、自虐とも言える軽口を叩くシーン。
全てが、死を受け容れた聖が、生きる=将棋を打つことそれだけに集中していく描写に見えました。

将棋を打つことは苦しいこと。
負けると"死にたくなる"位悔しいし、
勝ったからといってまた次の勝負が始まる。
それでも、その道で一手一手指していくことそれこそが、棋士にとっての生きることなんでしょう。

その生き様を、青春という甘い言葉で置き換えるのに面白みを感じました。
戦い恋をして先のことを考えずに、ただただ今を生きている、それが青春なのでしょうか。