木馬の時間

ブログタイトルは俵万智さんの大好きな歌から。ゆっくり、前に後ろに。

母乳がいいって絶対ですか

母乳がいいって絶対ですか?

母乳がいいって絶対ですか?

田房さんは、すごく自分を客観視することが上手だと思う。
私の好きなカウンセラーの信田さよ子先生が、"自分は虐待の連鎖をしたくない"というう母親の相談に対し、"自分がされて嫌だったことをちゃんと覚えててそれをやらなければよい"(意訳)といった解答をされていたことを思い出しました。
田房さんは、自分のされてきたことに対して、なぜ嫌だったのか客観的に言語化しています。
そして、娘ができた今。
自分の嫌いだった母と同じようなことをしてしまいそうになったという、認めがたい事実を、意識化して認めて、受け容れているのです。
彼女の中で、文章や漫画で表現するという術は、そういう作業なのかもしれません。

妊娠出産育児において、なんだか言葉にしがたいけどなーんか嫌なこと。
それを、言葉にしてくれているような本でした。

心に残ったこと。

妊娠中って、自分の中に存在する差別や偏見を取り除くのに一番適した時期なんじゃないかと思う

生まれる子が障害を持つ可能性があると気づいた瞬間に、障害者という存在と自分との間にあった見えない境界線が見えなくなる。
自分とはちがう世界のものだと、小説の中のもののように捉えて好き勝手言えていたのが、そうじゃないことだと理解できる。
そして、それって自分でコントロールできないんです。
たとえ出生前診断をくぐり抜けても、いろんな障害と我が子が共に生きていく可能性はある。
少なからず。

そうやって悶々と考えて、それでもエコーの映像を目を凝らして見て、胎動を感じておなかを撫でた後、"まぁいいか"と諦める時がくるんです。
考えてもしょうがない、目の前のことをやるだけだ。
その諦念って、大事な経験なんだと思うんです。
身を大自然に任せる、なるようにしかならないということに委ね、粛々と生きていく。
それが、親になるということなのかもしれません。

あとは、妊娠出産育児にまつわって、身体が変化することに傷ついていいんだと思いました。
正直、悲しい。
おっぱいはもう、前のおっぱいじゃない。
おなかもきっとそう、芸能人みたいにしっかり鍛えれば戻るのかもしれないけれど、私の今の人生において、限られた時間やお金のリソースをそこに費やすほどじゃなくて。
傷ついたことを、母になれたのだから!と、受け止められない風潮もあります。
ママ友同士で自虐的に笑い話としてしかいえない現実。
それでも、田房さんは、傷ついていいんだと言います。
わたしも、傷ついた。
自分の身体が変わって、女性としての魅力的な身体としてはマイナスのベクトルに動いてしまった事実に、傷つきました。

娘の性器の洗い方について躊躇する気持ちもすごーく共感できました。
触れちゃいけない、見ちゃいけないんじゃないかと思う気持ち、そう思うことを嫌悪する気持ち。
性的なものじゃなくて、娘ちゃんの身体の一部としてあるものなのに、どうもドギマギしちゃう気持ち。
おおっぴらにどこにも書いてないからこそ、意識しちゃう。
でも、意識したことも見なかったことにしていたから、顕在化できてよかったです。

或る日突然娘ちゃんが脚本家になる妄想をした話も面白かったです。
ご自身がそうなりたかったんだと気付き、スクールに通ってみる行動力がすごい。
わたしも、娘に夢を託さないようにしよう。
娘の人生は娘の人生で私のものじゃない。
わたしはわたし自身の人生で、生きていく。
娘ちゃんの選択でわたしが残念に思ったときは、田房さんのように、自分の夢を娘に押し付けている自分に気付こう。