映画「紙の月」。
館内は、シニア層のご夫婦やら女性3人組とか、とかく年齢層が高い客層。
見終わった後、一緒に見た彼氏が「すごく心にきた」とため息を何度もつき
「悪いことってしちゃいけないんだよ」と、言っていたのが面白かったです 笑
巨額の横領を行うことで、何がしたかったのか。
時計をあげたシーンが2回あります。
1度目は、自らのお金で夫に。
2度目は、横領したお金で光太に。
夫にあげた時計は、夫の小さなプライドからないがしろに扱われ、
光太にあげた時計は、喜び爆発されます。
正当な手段で稼いだお金で、正当な相手にあげたモノではなくて、
不正な手段で得たお金で、不健全な関係の相手にあげたモノが喜ばれる。
梨花にとって大切なことは、お金を使って何かを与えてあげて、喜ばれてもらうこと。
世間的な手段の善悪なんて梨花にとって取るに足りないこと。
それは昔の梨花も同じでしたね。夫にあげるのでは満足しなかったっていうことからは、やはり相手に喜んでもらうということが、大事なんですね。
いわゆる「貢がれていた」光太が、よりにもよって梨花が与えたマンションで浮気をしていましたね。
物質的に、肉体的に満たされる、目の前のめくるめく享楽。
それは、どこかニセモノで、カラッポで、ふと消えてしまいそうな不安定さがあって。
その不安定さに耐え切れずに、いっそ壊してしまいたくなったように、私には見えました。
後半、光太が同級生の女の子とクレープを食べながら歩いている姿が対象的でした。
数百円で事足りるクレープを食べながら歩いている時間、それはホンモノで確実なものでしょう。
しかし、梨花にとっては、そのニセモノでカラッポな「自由」で構わない。
指でなぞれば消えてしまいそうな、不確かなものだと100も承知で、
罪悪感や後悔などなく、どんどん「高揚感」に任せてとんでもないことをしていく。
梨花の中の超自我的な存在の隅と、イド的存在の恵子とが面白かったです。
隅との対話のシーンはいつもどこか緊張感にはらんでいましたね。
日の光が多く入る、明るいところでの対話。
恵子との対話が薄暗いロッカールームばかりであることと対照的です。
清く正しくまっすぐ生きている隅が、責めたてる。
あれは、わずかに残っていた梨花の中の理性。
そこから逃げ、雑踏の中で出会ったのは、幼き自分がお金をあげていた彼が、
大人になって子を成しているという事実。
その時、不確かでニセモノばかりでそれで満足していた梨花が、
はじめて触れたホンモノに、驚きを感じたというところで、物語は終焉。
たくさんの疑問符が心に浮かぶ映画。
映画の中では答えをあまり出してもらえなかった気がして、
みなさんのレビューを読みたくなるような、そんな映画でした。